『暗闇の中で子供』
舞城王太郎が『煙か土か食い物』に引き続き講談社ノベルスから放った奈津川家サーガ二作目!……だが、講談社ノベルスから出版された舞城王太郎の作品の中で唯一文庫化されていないいわくつきの作品でもある。事実、奈津川家サーガはこの作品を契機としてゆきづまり、『ファウスト』誌上にカラーイラストーリー『二郎』と、奈津川二郎の恋人を主人公とした『駒月万紀子』とを掲載したきり断絶している。いまや奈津川の名は奇妙な館の持ち主としてときおり引き合いに出されるだけとなっている。
それはさておき『暗闇の中で子供』はいったいどうして文庫化されなかったのだろう?『暗闇の中で子供』のいったいなにが問題なのだろう?
主人公は奈津川四郎の兄=奈津川三郎へと交代する。(余談だが、彼は前作で名探偵で友人のルンババ12を殺されている。そのルンババ12は次作『世界は密室で出来ている。』の主要登場人物である)。
あらすじを引用してみよう。
傑作。
破壊せよ!生成せよ!舞城王太郎!
体内の札束……ミステリ史上最悪の見立て殺人……
いまもっとも危険な“小説”がここにある!
あの連続主婦殴打生き埋め事件と三角蔵密室はささやかな序章に過ぎなかった!
「おめえら全員これからどんどん酷い目に遭うんやぞ!」
模倣犯(コピーキャット)/運命の少女(ファム・ファタル)/そして待ち受ける圧倒的救済(カタルシス)……。奈津川家きっての価値なし男(WASTE)にして三文ミステリ作家、奈津川三郎がまっしぐらにダイブする新たな地獄。
――いまもっとも危険な小説がここにある!
『暗闇の中で子供』には全体を貫くひとつの事件がない。『暗闇の中で子供』は見立て殺人や暗号のあるミステリーだ。にもかかわらず奈津川三郎と布施由里緒とのボーイミーツガールを描いた作品であり右腕に子供を孕んだり身体が巨大化したりする伝奇/怪奇小説であり、また奈津川三郎の小説論をつづったある種のメタフィクションでさえある。
このようなストーリーテリングの歪さは決して面白さにはつながっていない。『煙か土か食い物』と比べ、そのリーダビリティの低さは明らかだ。売れ行きの悪さ、相対的な出来の悪さ。結局それらが文庫化されなかった原因だと思われる。
しかしそれと同時にこの作品は舞城王太郎の小説に対する姿勢やプロットの組み立てかたが明快なかたちであらわれた、彼を知るうえで欠かせない作品でもある。
ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。
奈津川三郎は物語の存在理由についてそう述懐する。物語でしか語れないものが存在しているからこそ物語は必要とされている、と。
そう、真実を語るのは、作家ではなく、あくまで物語なのだ。
舞城王太郎ののちの作品でも物語をめぐる思想と思考とが頻繁に取り上げられてはいるがそれらでは物語のかたちづくられかた(『好き好き大好き超愛してる。』『イキルキス』)や物語の使われかた(『ビッチマグネット』)に焦点が当てられているため、一小説家としての物語のかたちづくりかたが論じられているのは全作品中この部分だけだ。ただそれだけでも『暗闇の中で子供』は読む価値がある小説だ(と、僕は断言する)。
この作品は(一見)THREEの章の時点で破綻している。ONE及びTWOとTHREE以降の章とでは肝心な固有名詞が違っていたり、事故死したはずの人物が惨殺されたことになっていたりする。しかし最終章に至り『暗闇の中で子供』それ自体が奈津川三郎による小説だということが判明すると、THREE以降の章が彼の嘘だったという解釈が成り立つようになる。
というよりかはむしろ彼自身の手でTHREE以降の章が彼の嘘だったということにされてしまう。
THREE以降の章では悲惨なことしか起きない。布施由里緒は発狂して家族を皆殺しにし、奈津川四郎はなにものかの手で車にはねられ重体、奈津川三郎は殺人鬼を殺し母と恋人とを失い、最後には奈津川家に恨みをもつ者の手によって四肢のすべてを切断されてしまう。
これらの出来事はどこからが本当でどこまでが嘘なのかメタフィクショナルなトリックで撹乱されてしまっている。
それだけではない。奈津川三郎は物語を語らないことによって強制的にリドル・ストーリーで終わらせてしまう。『暗闇の中で子供』に七つもの結末を用意し、そのどれが本当なのか語らずに終わらせてしまう。
何しろ物語というものは本当のことを書いても本当のことを伝えるとは限らないからだ。
だから俺は嘘を書く。
正直商業小説としては意味を成していない。この作品を読み終えても混沌はなにひとつとして解消されない。
だがここからは何故ひとは物語をかたちづくるのか?という問いに対するコンスタティブ且つパフォーマティブなひとつの答えのかたちがかなりはっきりと読み取れる。本当のことを書けばいいというわけではない。嘘のような本当のことは、ときに嘘でなくては伝えられないのだから。
ところで舞城王太郎はミステリーを『馬鹿みたいや』『クイズと答えは小説じゃねえぞ』『ミステリ読んでるとこっちまで死にたくなるわ』とこきおろしたうえで、作中の奈津川四郎にバリッ!と真っ二つにひき裂かせる。
しかし彼はミステリーへの嫌悪をここまで率直に語りつつもいくつかの作品において謎-解決構造をとりこんでいる。
この分裂症気質はいったいなにに依っているのだろう?
この問いに関しては次作『世界は密室で出来ている。』のレビューで詳しく考えてゆきたいと思う。
最後に、この作品の中には舞城王太郎がめずらしく三人称で記述したパートがあることを指摘しておく。彼はいままで『煙か土か食い物』の終盤と『182(ONE EIGHT TWO)』という漫画+小説とでしか三人称を採用していない。『暗闇の中で子供』では奈津川三郎の母の独白を奈津川三郎が小説としてリライトしたという体裁で出てくるが僕はこのパートをことに愛している。そこには村上春樹のよくできた短篇のようなリリックな趣きがある。
ごめんなさい、あなたのことは今でもまだ好きなのよ 、と彼女は言う。でもその愛情はきっともう長くは持たないの。わたしはさっきの人の身体中の傷を見て、何かが変わってしまったの。……