『1973年のピンボール』

 

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 

一九七三年九月、この小説はそこから始まる。それが入口だ。出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。 

 

僕の偏愛する小説のひとつに村上春樹1973年のピンボール』がある。僕は村上春樹の作品の多くを読んだがその中でひとつ選べといわれたらまずまっさきにこの作品を挙げたいと思っている。 

しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……。 

 この作品は村上春樹の初期三部作の、ちょうど一作目と三作目との橋渡し役となっている。小説としての出来は(他作品と較べ)決して良くない。情景描写はいささか詩的に過ぎる。双子の女の子との出会いと別れとには脈絡がない。鼠の語りは結局、主人公の語りと交錯することがない。なにがはじまり、なにが終わったのかすら判然としない。

実際、村上春樹自身は『風の歌を聴け』とこの作品とを初期の習作として、英語での出版をながらく許していなかった(2015年秋にとうとう出るらしい)。

にもかかわらず僕はこの作品に強烈に惹かれてしまう。なぜだろう?

 

風の歌を聴け』とこの作品との共通点は、本来語られるべきことを一切語らないというその態度だ。主人公はなんのためにこの小説を書いている?直子はなぜ死なねばならなかったんだ?そもそも直子とはだれだ?双子の女の子はなにもの?鼠はどうなってしまった?それらの答えのことごとくは作者の手により注意深く排除されている。偏執的なまでに。

 

それでは『風の歌を聴け』とこの作品との違いはなんだろう?いろいろある。

 

まず『風の歌を聴け』は一度英語で書かれたのち和訳されたものであるがこの作品はそうではない。そのせいかどうかは定かではないもののこの作品のほうがより情景描写が多く、洗練されていない印象を受ける。

また『風の歌を聴け』では単に「大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生」と呼ばれていた登場人物に、この作品では直子という固有名詞が与えられている。直子といえば『ノルウェイの森』でヒロインを務める女性の名だけれど、この作品には彼女の存在がひときわ大きな影を落としている。……にもかかわらず、彼女は直接には最初の30ページほどしか登場しない。

そして主人公と鼠とにそれぞれ平行した語りが与えられている。この技法は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『海辺のカフカ』、『1Q84』を想起させるものだ。しかしこの作品では上述したように語り同士が影響を及ぼし合うことはない。語りと語りは完璧にへだてられている。

 

以上のことからわかることはひとつ、この作品が村上春樹の作品として徹底的に不完全であるということだ。『海辺のカフカ』には次のような台詞がある。

でもひとつだけ言えることがある。それはある種の不完全さをもった作品は、不完全であるがゆえに人間の心を強く引きつける――少なくともある種の人間の心を強く引きつける、ということだ。

もちろんこんなのは出来過ぎだ。しかし僕がこの作品を好きになった一因としては疑いようがない。

 

ここで鼠取り、すなわち鼠をつかまえた出口のない物語について、それをつづっている主人公について、『羊をめぐる冒険』とのつながりについて、詳細に述べることはしない。それはいままでに多くのひとが論じすぎている。

 

僕はピンボール・マシーンについて語る。

作中ではピンボール・マシーンについて次のように書かれている。

ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。

主人公は1970年の冬から半年間ジェイズ・バーではなくゲーム・センターでひとりぼっちでピンボールを打つ。技巧がリファインされハイスコアをたたきだせるようになると、ひとびとから注目を浴びる存在になってゆく。主人公の相棒は3フリッパーのスペース・シップ。しかしそれはゲーム・センターがつぶれると同時に行方知れずになってしまう。

主人公はひょんなことからスペース・シップとの再会を望むようになる。そしてそれは果たされる。ピンボール・マシーン蒐集家が改装した、ひとけのない養鶏場の冷凍倉庫の中で。

主人公はスペース・シップと会話する。

ゲームはやらないの? と彼女が訊ねる。

やらない、と僕は答える。

何故?

165000、というのが僕のベスト・スコアだった。覚えてる?

覚えてるわ。私のベスト・スコアでもあったんだもの。

それを汚したくないんだ、と僕はいう。

彼女は黙った。そして十個のボーナス・ライトだけがゆっくりと上下に点滅を続けていた。僕は足もとを眺めながら煙草を吸った。

主人公は近況を報告し、短い会話を終えると、結局そのままなにもせずにその場を去る。ふりかえらず。一度もふりかえろうともせず。

会いに来てくれてありがとう、と彼女はいった。もう会えないかもしれないけど元気でね。

ありがとう、と僕はいう。さようなら。

 死者に対して僕らはなすすべをもたない。彼ら彼女らは死んでしまえば永遠に若いままだ。僕らはその呼吸やまなざしや影を記憶の中でリプレイしつづける他ない。リプレイ、リプレイ、リプレイ……。でもそれはひどく空しい営為だ。

主人公は死者の国に立ちいったにもかかわらず直子を返せとは叫ばない。直子とただ静かに会話するだけ。主人公にとってのベスト・スコア165000はもう再現し得ないから。

このオルフェウスはエウリュディケーを奪還しようとはしないし帰り道でふりかえりもしない。

 

僕はこの作品を読むたび、他のどんな恋愛小説を読むときよりも感傷的になる。ことばは残る。でもそれは亡霊なのだ。いくどでも繰りかえし現れては僕らを苦しめる亡霊なのだ。

何もかもが繰り返される……。(中略)

何もかもがすきとおってしまいそうなほどの十一月の静かな日曜日だった。